第17回遠隔授業アイコン
三重県四日市市学校法人暁学園暁小学校5年生約80人  講話:松原美代子
2010(平成22)年8月10日

 平成21年8月10日、インターネットを使用した遠隔授業を実施しました。今回は、松原自宅で自身のパソコンと暁学園小学校のパソコンをネットでつなぎ、スクリーンに拡大して午前9時から授業しました。約20分間話しをした後、15分程度小学生から、質問や感想などを受けました。
○ 原爆の後、地獄のような街を見てどう思いましたか
松原:自分は被爆後、床に伏せており、顔を包帯で覆っていたので、周りが見えず、遠巻きに閃光やおびえ声などで、周囲を慮っていました。7か月のち、外の景色をみて、なんで戦争を、原子爆弾を落とされたのか、と悔し涙がでました。
○ 戦争中の食べ物はどのようなものでしたか。どうしていましたか。
松原:こんなものでも食べられるのかと思うようなものでも、何でも焼いたりして食べました。鉄道草なんてものは硬くてとても食べられなかったけど、それでも食べました。田舎に買い出しに行くこともありました。
○ 松原さんの家族は被爆等どうですか。
松原:私の家族は、父は警報団員(けいぼうだんいん)で市内に火消しをしてから、10年もたたずにガンで亡くなりました。兄夫婦がやはり、早く亡くなりました。残された3人の子供を私が引き取り、育て上げました。
○ 今の日本にとって、軍人は必要だと思いますか。
松原:軍人のいらない日本は本当に幸せな国だと思う。外国は軍人がいる国ばかりだから。
○ 原爆が落ちてくる前と後の気持ちはいかがでしたか。
松原:原爆が落ちる直前まで、平和ではないにしても、毎日周りの人と幸せに暮らしていました。それが、原爆が落ちた瞬間、地獄に変わり果ててしまいました。実際、今でも、ガンにおびやかされる毎日です。
○ 原爆被爆後、毎日何をしていましたか。
松原:被爆直後から、7か月寝たきりでした。動けるようになって、母親の炊事の手伝いをさせてもらいました。芋のつるを食べれるようにして、夜、家族に食べて貰えた時、私は、自分でも役に立てたとうれしくなりました。
○ 実際の戦争と、自分で思っていた戦争は違っていましたか。
松原:こんなにひどいものとは思いませんでした。本当にこの世の終わりのような光景です。
○ どうやって生き延びることができたんですか。
松原:とにかく食べないとと母親や、友達や周りの人が、私に食べ物を与えてくれました。そのおかげで生き延びれたんだと思います。
○ 黒い雨って何ですか。
松原:黒い雨の中には、放射能を含んだ塵やほこりが、含まれているんです。
○ 川のようすはいかがでしたか。
松原:当時、川の中には、爆風で飛ばされたがれきや、死体でたいへん汚れていました。きれいになるまで、何十年もかかりました。
○ 原爆の落ちたときの音はどんな感じの音でしたか。
松原:衝撃波(爆風)は、台風の10倍440メートルの風で、音は、ピュードガーンという炸裂した音でした。





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