伝えたい核の悲惨さ 原爆の恐ろしさ

「小頭症」-娘にまで放射能の影響が…

畠中国三さん

昭和20年8月6日。その日私は四国に出征しており、広島の実家では妻がまだ赤ん坊の子供と一緒に、留守を預かっていました。

広島に残した妊娠中の妻が被爆

 当時は、建物疎開のため動員され、私の妻も私のかわりに働かなければなりませんでした。赤ん坊を背負い、しかも妊娠していた妻を気遣って、私たちの町内会長は休んでいるよう勧めました。妻が作業の手を止めて近くの小屋へ入ろうとしたその時、広島のまちに原爆が落とされたのです。小屋は激しくゆれ、辺りは急に真っ暗になりました。妻はすぐに身をかがめ、しばらくじっとしていました。やがて辺りが明るくなり、妻が小屋を出てみると町は逃げ惑う人であふれていました。妻もその人ごみの中に入り逃げたのです、でも逃げるところなどどこにもありませんでした。
 そうして逃げ回っているうちに、空から雨が降ってきたのです。真っ黒い雨で、これがあの「黒い雨」だったのでした。妻は雨に濡(ぬ)れないよう近くの小屋に入り、雨がやむのを待ちました。そして背中にいる子供のほうを見てみると、子供の頭にはガラスの破片がいっぱいささっていて、血だらけになっていたのです。近くのテレホンボックスが吹っ飛んで、そのガラスの破片が子供の頭に刺さったのでした。妻はもうびっくりしてすぐガラスを取り始めました。そして雨がやむとすぐ、妻は子供を抱えて家に急ぎました。しかしもどってみるとそこはもう焼け野原で、家も何もかもすべてなくなっていました。妻は子供とともに2日間、防空壕(ぼうくうごう)の中で過ごした後、実家がある大竹市に向かいました。これは後から聞いて驚いたのですが、そうして全身に重傷をおいながらも、かろうじて生き残った人が中にはいて、かえって原爆投下直後、全く怪我(けが)をしていないような人が後に次々と死んでいったのです。そういった人たちは無傷に見えても、放射能を浴びていたために、後に原爆病を煩い亡くなっていったのでした。
 原爆投下の1週間後、妻に原爆病の症状があらわれ始めました。背中に水泡ができ、下痢(げり)が続き、歯は抜け落ちていきました。また、体がだるく、一日中横になって寝ていなければなりませんでした。さらには放射能の影響のため髪がすべて抜け落ちてしまい、そしてその数日後、私は家に帰ってきました。広島は荒れ果ててしまいましたが、でもそのような状況でも私は家族を食べさせていくために働かなくてはなりませんでした。私は仕事を探すのをやめ、自分で床屋をやっていくことにしました。

生まれた娘は、はうことも歩くこともできず

 昭和21年2月14日。私の妻が子供を出産しました。それが私たちの娘、百合子(ゆりこ)でした。百合子が生まれたとき本当に他の赤ちゃんにくらべて少し小さいのを除けば、全く普通の赤ちゃんでした。しかし百合子を取り上げた助産婦さんは百合子を取り上げた時、男の子とも女の子とも言わずにただ「よう気を付けてこの子を育てんさいよ」と言ったのです。
 百合子は大きくなるにつれ、他の子供とは違った面を見せるようになりました。百合子は1才になっても、はうことも歩くこともできませんでした。私たち夫婦はとても心配になりましたが、祖母が「大丈夫、すぐに歩けるようになるよ。心配しんさんな」と励ましてくれました。私たちは気を取り直し、百合子を見守り続けました。しかし、2才になっても3才になっても、百合子ははうことも歩くこともできませんでした。私たち夫婦は本当に心配で、なんとか百合子を病院に連れていきたかったのですが、当時、私たちには百合子を病院に連れて行くお金すらありませんでした。百合子が6才のとき、普通のお子さんでしたら小学校へ入る歳ですが、百合子の場合は小学校に入ることができませんでした。百合子はその歳でまだ、一人でトイレに行くこともできなかったのです。百合子はとうとう1日も学校へは行きませんでした。百合子は家で絵本を見たり、お菓子を食べたりして毎日を過ごしていました。1日も学校には行きませんでした。

「放射能が胎児に影響」11年後に知る

 そうしたある日、学者や医者からなる一行が我が家にやってきました。そして彼らのうちのある一人の医者が百合子を診て「小頭症」と診断したのでした。その医者は放射能のために百合子がその病気になり、しかもこの病気のために百合子は知恵おくれになり、他の子どもよりも発達が遅く、普通に歩くこともできないことを知っていました。しかし、彼らはそのことについては何も触れず、ただ小頭症とだけ診断して帰っていったのでした。だからその時私たちはまだ、百合子はすぐに良くなると思っていました。
 それから11年がたったある日、ある映画会社の一行が我が家を訪れ、百合子をビデオに撮りたいといってきたのです。私たちは彼らに応じ百合子のビデオを撮ってもらいました。そして、その年の暮れ映画「世界は恐怖する」を見ました。私たちはこのとき初めて、百合子は放射能によってこの病気になったのだと知りました。私たちは11年もの間、このことを知らずに生きてきたのです。
 後年、今度は妻が原爆のために苦しむようになりました。腰や足に痛みが出て、医者へ通うようになりました。医者は、他の病院で精密検査を受けたほうがいいというのでした。この間、妻はひざがだんだん弱くなり、一人で病院に行くこともできなくなりました。みるみるうちに妻の体は弱っていき、そしてとうとう妻は骨に癌(がん)があることがわかりました。妻はどんどん弱くなっていき、昭和53年12月26日、とうとう亡くなりました。

核廃絶の思い 次の世代へ

 私が皆さんに言いたいのは、戦争というものがいかに悲惨で、原爆がいかに恐ろしいかということです。たとえ直接原爆にさらされなくても、人はその後何年も苦しまなければならないのです。また、たとえ原爆が落とされた時に生まれなくても、生まれた後で苦しまなければならないこともあるのです。
 私たちはこの地球上から核兵器をなくしていかなければなりません。そして原爆の悲惨さを次の世代に語り継いでいかなければなりません。私たちが理解しているだけでは駄目なのです。次の世代に語っていかなければならないのです。火がともっている蝋燭(ろうそく)に新しい蝋燭を足さないと、蝋燭は消えてしまうように、私たちは核廃絶の熱い思いを、次の世代へつないでいかなければなりません。そして必ずこの地球上から核をなくしていかなければならないのです。

【原爆小頭症】

 1946年になると、妊娠中に比較的近距離で被爆した母親から頭の小さい子どもが生まれた。子供たちが成長するにつれ、知恵遅滞が生じるケースがあることも分かってきた。こうした症状を「原爆小頭症」という。胎児期の脳は放射能の影響を受けやすいので、受胎後8週から25週で被爆した場合にこうした障害が起こる。