「水をくれ…」忘れられぬ 慰霊碑に献水続け供養

宇根利枝さん


宇根利枝さんが2月10日に亡くなられました。
宇根さんの被爆体験談はこのまま残し、後世に伝えていきます。
ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。

 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分に広島に原爆が落とされたとき、私は26歳でした。爆心地から南東に2.7キロメートル離れた、比治山裏の陸軍兵器支廠(へいきししょう=戦場で使う武器の製造や修理をして戦場に送っていた工場のこと)に勤める母親のための託児所で、その年の1月から主任保母として働いていました。

泣き叫び走り回る子どもたち
 託児所にはその日26、7人の子どもたちがいました。大きい子どもたち男女8人くらいは外で遊んでおり、小さい子どもたちは台所の隣の広い部屋で寝ていました。6、7人が泣いて起き始めていたので、保母さんたちがあやしていました。おやつのカボチャがまだ煮えないので、ぐずる子どもたちをあやす手伝いをしようと子どもたちの部屋に向かった瞬間、真っ暗闇になり体になにか押し重なる感触があり、部屋の中に押し倒されました。
 私は恐怖におののいて、押し倒されたままでいましたが、すぐに「なべの下の火を消さないと、一番に託児所が火事になってしまう」と気になったので、もがいて台所のほうを見ました。すると、なべの中身は散乱し、辺りもグチャグチャになり、なにかキラキラ光るものが見えました。よく見ると台所の窓が割れ、ガラスの破片が飛び散っていましたが、私は軽いけがで済みました。
 少し起き上がると、見渡す限りまるで「みかん色」のようでした。朝のはずなのにまるで夕焼けの中に立っているようでした。何がなんだか分からず、「すでに託児所が火事になったのだ」と思いましたが、周囲が熱くもなく燃えていないので不思議に思いました。最初は工場だけが狙われ、不意打ちをくらったと思いました。私は、「おかあちゃん、おかあちゃん」と泣き叫ぶ子どもたちを追いかけて、部屋の中に散乱しているふとんをつかみ、泣いている子どもの頭にかぶせながら回り、そうしたら泣き声が小さくなったので「みな助けた」とホッとしました。
 一人のお母さんが「うちの子がおらん。連れてきとるんじゃが、みんなで捜してくれ」と言って、みんなで3つの女の子を捜し回り、ようやく倒れたベビーオルガンの下敷きになっているのを見つけました。お母さんはいち早く子どもを引っ張り出して狂ったようにわが子を抱き上げて、振りまわしたりたたいたりしていました。そうしたら、口もとから白い泡のようなツバみたいなものが出てきたと同時に小さな声で泣き出したのです。お母さんは「生きた、生きた」と大喜びました。
 お母さんたちが工場から方々走ってきました。お母さんたちは、わが子を見つけると「えかった、えかった」と喜び、子どもを抱きしめたままその場に座り込み、親子で泣き出しました。軍隊の工場なので、上司の命令がないとその場を勝手に動くことはできませんでした。


水、飲ませてあげられず
 外で遊んでいた大きい子どもたちの姿が見えないので、お母さんたちと「逃げたんだろう」と見通しのきく所まで一緒に走って捜しましたが、どこにもいませんでした。戦時中でも母子保護法がありまして、警戒警報が出たら母親は職場から離れ託児所に来て、親子全員そろったら(子どもが歩いて15分ぐらいのところにある)比治山裏の兵器支廠専用の指定された防空壕(ぼうくうごう)に一緒に避難させました。それで、すぐに母親と一緒に防空壕に行ってみました。
 防空壕の前に着くと、そこには全身やけどやけがをした人でいっぱいで、防空壕の中も同じような人たちで満員でした。お母さんが「お化けみたいな人ばっかりで子どもが見当たらない。子どもらは怖いから託児所に帰ったんだろうから、私たちと入れ違いになったのだろう。帰ろう」と言いました。この人たちは顔が赤くふくれあがって、裸のまま。後ろから見たら、男か女かも分からないほどのやけどでした。
 私は5、6人のやけどをしていた人に「どうしたん、あんたはだれ?どうしてそうなったん?どっから来たん?」と聞いてみましたが、みんな舌が切れたりねじれたりしていたので、ぜんぜんものが言えず何を言っているか分かりませんでした。何も分からないし、子どもも見当たらないので急いで帰ろうとすると、さきほどの人たちは身ぶり手ぶりでゼスチャーを始め、かがんで土をすくうような手ぶりをし、それを口に持っていって飲むようなしぐさをしました。
 「うう…っ…みっっ」
 か細くこもった、しかもはっきりしない声でした。なにを言っているのかわかりませんでした。
 「みっ…みっ…をく…」
 「なに?よく聞こえん。どうしてほしいの?」
 何度か聞き返し、その人たちの求めているものが手ぶりでやっと分かったのです。「水?水?」。そう尋ねると向こうがうなずきました。その人たちの表情が変わり、私を拝むようにしてぞろぞろと後について来ようとしたので、「ついてきたらいけんよ、待っとりんさい。水持ってくるけぇ。そこに座っとりんさい」。そう言ってそこに座らせ、私はすぐに水を求めに出かけました。
 すると、ひとりの大けがをして血を流しているおじさんが、「今広島のまん中に、なにかわからんすごい爆弾が落とされて、その中になにかわからんものすごい毒ガスが混じっとる。今、広島中の水は全部毒ガス混じりの水じゃ。そいつらに水を飲ませてみろ、コロッと即死するぞ。絶対に飲ませたらいけんぞ!」。私は怒鳴られ、何度も「持ってくるなよ」と言われました。理由を聞いて恐ろしくなり、とうとう水をくむのをあきらめました。 向こうで座って私の水を待っている人たちがいる…。でも、くんで帰れない。飲ませてあげられない…。とても残念で、心苦しい思いでいっぱいでした。おそらくあそこにいた数人は私の水を待ちながら死んでいったことでしょう。


私の家族
 結局、託児所で日が暮れる前(おそらく午後4時くらい)まで待ちましたが、上司からの命令はありませんでした。私は、私の長男と、親と出会えなかった子どもたち合わせて4人と一緒に隣接した皆実町の私の家に向かいました。幸い家は燃えてはいませんでしたが、押しつぶされていました。ここではどうにもならないと思い、夫の実家へ向かいました。夫は昭和19年ごろ呉の海軍に召集され、その時は茨城県土浦で航空隊予科練の教師をしていたので、原爆の被害から逃れることができました。
 一緒に連れてきた3人の子どもは8日と9日に親せきの人が来たので、それぞれに引き渡しました。その後私は進駐軍が来るまで、壊れた託児所跡に残務整理のため勤めていました。


「おいしい水を飲んで」と祈り
 昭和30年ごろのある日、己斐にある大茶臼山に友人と登ったとき、中腹の教順寺の「滝の観音」と出会い、山水の清らかな滝を見つけました。その時、あの日のことがあざやかによみがえりました。広島市内が一望できる一番いい滝水に出会い、すぐに「あの原爆でなくなった人たちにこのお水を飲ませてあげたい」と思ったのです。このお水を慰霊碑に持っていって、おわびしよう。許してください、と。命のある限り、健康の続く限り…。
 そのとき以来40年あまり、年ももう80歳を過ぎましたが、私は天気のいい日にはお水を入れたカートを引いて広島市内をはじめ120カ所くらいある慰霊碑にお水をお供えしています。「原爆献水供養」と書かれた小さな透明のコップにお水を入れ、供養をさせていただいています。
 人間が死ぬとき、あんな残酷な死にざまはありません。以後、二度とああいう地獄は見たくないし、見せられたくはありません。核爆弾は人類だけでなく、命あるすべてのもの、人間が作り出した芸術などの文化も破壊して撲滅(ぼくめつ)するものです。絶対に使ってはならない、使われてはならないと願っています。



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