▽原爆供養塔

▽原爆供養塔

原爆投下後、この地区の川や市内のいたるところから、連日のように数知れぬ遺体が集められ、このあたりで荼毘(だび)にふされました。遺体の多くは損傷がひどく、男女の区別さえつきかねるほどだったと言われています。
 平和公園周辺の慰霊碑でも、遺骨があるのはここだけです。現在、約7万柱の遺骨がこの円形の土盛りをした供養塔の中に納められています。名前の分かる遺骨もあって、家族や親せきが名乗り出るのを待っている状況がいまだに続いています。 毎年夏に、その犠牲者の名前が公表され、戦後50年以上たった今でも、全国に散らばった遺族が毎年のように犠牲者の身元確認にやってきます。
 毎年8月6日にさまざまな宗教団体が集まって合同慰霊祭を行い、犠牲者に祈りをささげています。

▽韓国人原爆犠牲者慰霊碑

この慰霊碑は、韓国人原爆犠牲者のための碑です。1970(昭和45)年、在日本大韓民国民団広島県地方本部によって建立されました。
 塔は、大きな亀の形をした台座の上に立っています。塔のてっぺんには、竜が彫刻された王冠があります。その王冠の中には、原爆で亡くなったおよそ2千500人の死没者名簿があります。韓国では、死者は亀または竜の背にのって天国へ行くという伝説があります。全体の碑は韓国の石を使って、韓国で作られたのちにこの地に運ばれました。
 碑文は、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑 李〓公(イウこう)殿下外二万余霊位」とあります。2万人の韓国人が原爆投下で被害を受けたと推定されています。碑文の李〓公殿下は、朝鮮王朝(李朝)最後の王子の甥(おい)でした。
 11才の時日本に連れて来られ、教育参謀を務めていました。宿舎から馬に乗って出勤していた途中、相生橋近くで被爆。重傷を負い、似島の臨時救護所へ収容されましたが、翌7日亡くなりました。この碑は、彼が発見された場所に近いということから、この地に建てられたと言われています。
 南北朝鮮の統一碑建設が模索されたこともありましたが、文案などをめぐって調整は難航していました。98年12月、平岡敬前市長が関係者の同意を取り付けてようやく公園内移設が実現することになり、統一碑を公園内に建てるという方針は変えず、当面の措置として現在の碑を公園内に移すことになりました。 移設は99年に実施され、現在は原爆供養塔の南側にあります。
 
【注】〓は金へんに隅の右側のつくり、写真は平和公園に移設する前の慰霊碑

▽被爆アオギリ

これら2本のアオギリの木=写真・佐々木克実撮影=は、爆心地から1.5キロメートルの地点で被爆し、1973(昭和48)年にここに移植されました。爆心地に面した幹の半分は、中がすっからかんに焼けたにもかかわらず、原爆から生きのびました。
 原爆のあと、「広島は約70年間は草も木も生えないだろう」と言われました。しかし、アオギリの新しい芽は、絶望のふちにいる生存者が生き続けるのを励ましながら大きくなりました。生き残った人々の中には、被爆したアオギリから種を拾って新しいアオギリを育てている人もいます。日本各地で反核・反戦の願いを根づかせようと、修学旅行で広島を訪れた学生たちにこのアオギリの種が手渡されています。
◆関連項目 沼田鈴子さんの被爆証言

▽平和の鐘(かね)

平和の鐘=写真・佐々木克実撮影=は仏教で神聖な植物といわれている蓮(はす)に囲まれています。8月6日の原爆記念日のころ、蓮の花は満開になります。蓮の花は仏教において重要なシンボルです。蓮は泥沼から花を咲かせることから、俗世間から抜け出し悟りを開く人間の能力を象徴しています。
 鐘の表面をよく見ると、国境のない地図が描かれていることに気付きます。これは「世界は一つ」ということを表現しています。ドーム型のコンクリート製の鐘楼(しょうろう)は宇宙を表わしています。鐘楼は4つの柱で支えられており、それぞれがこの世の4つの避けられない苦しみ、生、老、病、死を意味しています。鐘の前面には鏡があり、そこに内なる自分の姿が移し出されると言われています。
 この鐘はだれでも自由につくことができます。訪れた人は平和への願いを込めながら、その響きを平和記念公園に響かせています。

▽原爆ドームと世界遺産

1996(平成8)年に世界遺産として ユネスコに登録された原爆ドーム=写真左=は、原爆投下前までは広島県産業奨励館=写真右=という建物でした。日清戦争と日露戦争により、広島は軍事的にも工業的にも発展しました。その中でこの産業奨励館は、いわば広島の経済力の象徴として市民に親しまれていました。
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、人類史上初めての原子爆弾が広島に投下されました。原爆は、ドームから150メートルほど離れた島病院の上空約580メートルで炸裂(さくれつ)しました。爆心地は島病院です。原爆はほぼ真下にあるドームを直撃しました。そのため、いま私たちが目にするように枠組みだけは残りましたが、内部は焼け落ちてしまいました。
爆心地の温度は、3千度から4千度にも達し、それは鉄を溶かすことのできる温度約1500度の3倍も高い温度でした。爆風は、最初の段階では1秒間に440メートルの速さで爆心地周辺を襲いました。10秒後には直径4キロメートル以内のほとんどの建物は破壊され、人々は大変な被害を受けました。
原爆を搭載した爆撃機B29「エノラ・ゲイ」は、T字型の相生橋上空約1万メートルの空中から原爆を投下しました。そして、地上580メートルで爆発するまでに、この爆弾はすでに中性子を四方八方にまき散らしていた、という報告もあります。(1998年8月6日NHKスペシャル「原爆投下 10秒の衝撃」)mo2-5-2
原爆は熱線、爆風、放射線を放ち、一瞬にして広島の街を焦土に変え、人びとを死に追いやりました。当時、ドームの中ではおよそ30人の人々が働いていたそうですが、その人たちは一瞬のうちに死んでしまいました。
ドームは、チェコの建築家ヤン・レッツェルの設計で建てられ、被爆前までは多くの人びとにその姿を愛されていました。被爆後、ドームは日がたつにつれ老朽化が進み、その保存について賛否両論が出ました。 ドーム保存の運動は1人の原爆 被爆者の少女の日記によってスタートしました。その少女、梶山ひろ子さんは、白血病の病魔(びょうま)におかされながらも千羽づるを折りつづけた佐々木禎子(ささき・さだこ)さんと同じように2歳の時被爆しました。そして15年後、17歳でその一生を終えました。彼女は禎子さんと同じ白血病におかされていました。ひろ子さんの死後、彼女の日記に「ドームの存在が生きる支え…」と書かれていることを知り、家族、友人など多くの人びとが、ドームを永久に保存しようと運動を進めたのです。彼女は禎子さんと同じ白血病におかされていました。ひろ子さんの死後、彼女の日記に「ドームの存在が生きる支え・・」と書かれていることを知り、家族、友人ら多くの人びとが、ドームを永久に保存しようと運動を進めたのです。
1966(昭和41年)7月、広島市議会は保存を決議し、日本全国からそして世界各地から平和を願う人々によって募金が寄せられました。現在までに保存のための補強工事が二度行われました。
今日ドームは私たちに、戦争と核兵器の非人間的な悲惨な現実を伝える証人として立っているばかりでなく、もうこれ以上、私たちが過ちを繰り返さないための警鐘(けいしょう)を鳴らす役割を果たしているのです。