ヒロシマの心を伝える会

◆原子爆弾の原理◆

【イラスト】黄土色の大きな粒が原子核。青い小さな粒が中性子。赤い矢印が発生したエネルギー   物質を構成している原子の中心にある原子核を人工的に壊すと、大量のエネルギー(高い熱や人体に危険な放射線)が放出されます。ウラン235(またはプルトニウム239)の原子核は、1個の中性子がぶつかると分裂し、この時2個から3個の中性子が飛び出すと同時に、膨大なエネルギーを放出します。 飛び出した中性子は、別のウラン235(またはプルトニウム239)の原子核にぶつかり、同様に分裂し、エネルギーと中性子を放出します。この核分裂がごく短い時間に次々と広がると、瞬間的に非常に強大なエネルギーを生み出すことになります。この原理を兵器として利用したのが原子爆弾(原爆)です。 ▽原子爆弾の誕生 原子爆弾の研究はドイツなど各国で始められていましたが、アメリカでは1942(昭和17)年から「マンハッタン計画」という暗号名のもとで、実際に原爆の製造が進められました。この計画は多額の国家予算と膨大な人員を投入して極秘のうちに進められ、45年7月16日には、アメリカ・ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で人類史上初めての核爆発実験(=写真、米軍撮影)を成功させました ▽広島型原子爆弾(リトル・ボーイ) <長さ:約3メートル、 重さ:約4トン、直径:約0.7メートル、主体:ウラン235> 広島型は、細長い形をしていたので「リトル・ボーイ」と呼ばれました。核分裂物質としてウラン235が使われていました。このウラン235は臨界量より少ない量の2つの固まりに分けられ、一方の固まりが火薬の爆発力によって他の一方の固まりにぶつかり、一瞬のうちに臨界量以上になるように造られました。 ▽長崎型原子爆弾(ファット・マン) <長さ:約3.2メートル、 重さ:約4.5トン、直径:約1.5メートル、主体:ブルトニウム239>  長崎型は、広島型に比べてずんぐりと丸みのある形をしていたので「ファット・マン」と呼ばれ、核分裂物質としてウラン235を用いた広島型とは種類が異なるプルトニウム239が使われていました。

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被爆までの広島

広島市は江戸時代、中四国地方第一の城下町でしたが、1867年の明治維新ののち、広島県の県庁所在地として再出発しました。  その当時の広島は、海、川、山に囲まれた三角州(デルタ)の上に位置する都市でした。一方、陸軍の施設が集中していき、やがて学都・軍都という2つの顔をもつ都市として知られるようになりました。 1920年代から発展し始めた重工業も1930年代後半には軍需工業化していきました。被爆直前には、広島湾一帯は、呉の海軍と合わせて軍事的性格を強めていました。 ▽明治・大正期のあゆみ▽ 広島市は近代化の波に乗って、しだいに学都・軍都の性格を強めていきました。  日清戦争(1894-95年)当時、戦争の指揮をとるための最高機関である大本営が設置されました。帝国議会も開かれ、広島はあたかも首都であるかのようでした。また、たくさんの兵士が戦場に向けて広島南部の宇品港から出兵しました。  日露戦争、第1次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争…。広島は日本の戦争のたびに軍隊の集結・出兵の地となり、軍事施設も拡充されていきました。  また、たくさんの教育施設がある学都としての顔も持つようになりました。1902(明治35)年には東京に次いで、教員養成のための「広島高等師範学校」が開校しました。 <相生(あいおい)橋> 相生橋はT字の形をした全国でも珍しい橋で、これが原爆投下の目標になったと言われています。このT字型の相生橋は1934(昭和9)年に完成しました。それにともない、東西からV型に架けられていた旧橋は取り払われました。写真はT字型になる直前の橋の様子です。V字型の旧橋もまだ残っています。 【写真】戦前の相生橋(広島市公文書館提供) ◆ 関連項目  西館「爆風で吹き上げられた相生橋の歩道」  碑巡り「相生橋」 <日清戦争と宇品港> 広島市の南部に位置する宇品港は、1889(明治22)年に完成しました。  日清戦争(1894-95年)が始まると、わずか17日で広島駅から宇品港まで軍用鉄道が敷かれました。  宇品港は中国大陸への軍用輸送基地となり、多くの兵士が港から出兵しました。沿線には陸軍の兵器・被服・糧秣(りょうまつ)の3支廠(ししょう=工場)や輸送、補給を担当する「陸軍輸送部」がなどの軍事施設が設置され、戦時の重要港としての役割を果たしました。 【写真】日清戦争当時、宇品港に停泊する輸送船と出動部隊を運ぶ小舟(広島大学文学部国史学研究室提供) ▽昭和期・戦時下の広島▽ 日本軍の中国大陸での戦争は、1931(昭和6)年の「満州事変」が引き金となり、37年に起こった「盧溝橋(ろこうきょう)事件」で日中全面戦争に拡大しました。  さらに41年に日本軍はハワイ・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲。ドイツ、イタリアと同盟した日本は、太平洋戦争(第2次世界大戦)へと突入していきました。  広島の多くの産業は軍の命令に協力し、生活物資の生産から軍需物資の生産へと急速に切り替えることになりました。そのため、市民の生活は徐々に苦しくなっていきました。男性は戦場にかり出され、残された女性やこどもは軍需工場に動員され、働かされました。そのなかには、朝鮮半島や中国大陸から強制的に動員され、工場や炭鉱などで働かされていた人びとも少なくありませんでした。 <国民総動員> 1937(昭和12)年の日中戦争開戦後、政府はすべての国民を戦争に協力させる「国民総動員」の体制をとりました。それは人びとの生活だけでなく、考えや思想の自由までも否定する「精神総動員」にまで及びました。 広島でもぜいたく禁止運動などが実施され、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」などと、生活が苦しくても耐えるように強制されました。 食糧や衣服などの生活物資はしだいに不足し、切符(きっぷ)制や配給制となりましたが、それさえも困難となりました。人びとはヤミ物資に頼ったり、校庭までも農作地にするなど、ますます生活が苦しくなっていきました。 また、空襲に備えて各家庭でも防空壕(ぼうくうごう)が作られ、人びとは避難訓練やバケツリレーなどの消火訓練に駆り出されました。 また、学校で軍事訓練が「兵式体操」という名で明治時代から行われていましたが、昭和に入って陸軍の軍人が中等学校以上に配属され、その強化が図られました。...

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世界からの便り

世界の人びとは、第二次世界大戦をめぐるさまざまな問題や、広島・長崎の原爆投下、また核問題や未来への平和構築についてどのように考えているのでしょうか。   このコーナーでは, 1997年に開設された英語版ホームページ「Miyoko’s Room]に寄せられた、世界からの感想や意見をまとめました。内容は賛同や支援、批判や反対など多種多様です。      私たち「ヒロシマの心を伝える会」は、インターネットでの対話を通じて人びととの心の連帯を築き、平和構築への意識を高めていくことを一つの目的としています。 新着メッセージ インド・パキスタンの核実験について 戦争の加害・被害について 強行は愚かだ(1998.1014)実験の理由を知りたい(1998.10.6) 日本の戦争責任は(1998.9.26)お礼(1998.10.14) 核について 英語版ホームページの感想 核実験やってどこが悪い(1998.10.16)核拡散防止へ計画を(1998.10.11) 真実の話と魂は生き続ける(1998.10.10) さまざまな質問 みんなの意見 衝撃的な内容 もっと体験を聞きたい (1998.12.11)私たちは何を討議したら… (1998.11.8)お礼(1998.10.8) 神は生命を破壊するために原子を作ったのではない(1998.11.21)地上戦の長期化を考えれば、やむを得ない(1998.11.12) その他 - インド・パキスタンの核実験について  昨年の5月、インドとパキスタンが核実験を行いました。この両国の核実験によって、世界では核拡散の恐れが高まりました。 核廃絶を求め、行動している私たちは激しい憤りをおぼえ、両国の首相に対しただちに抗議文を送りました。 このインド・パキスタンの核実験については、たくさんの意見が寄せられました。 戦争の加害・被害について  核の恐怖を知るものとして、私たち被爆者は広島から世界に向けて、核廃絶・世界平和のメッセージを発信しています。 しかし私たちが核廃絶の声を上げれば上げるほど、一方で戦争中の日本の侵略行為を厳しく非難し、広島・長崎の原爆投下を容認する意見も多く寄せられています。 核について...

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世界のこどもたちが見たヒロシマ

平和は全人類の願いです。戦争を知らない核時代に生きる子どもたちが、原爆を、ヒロシマをどのように感じ、受け止めているのでしょうか。 広島を訪れたこどもたちの感想文を紹介しています。 感想文を書いているアメリカンスクールの子どもたち(2000年2月、広島平和記念資料館) アメリカンスクールの子どもたちからの花束贈呈(2002年2月、広島平和記念資料館) 日本にあるアメリカンスクールの子どもたちの感想を紹介します。

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