戦争の愚かさと生命の尊さ語り続ける

核廃絶にささげる人生-原爆は過去のものではない

松原美代子

1945(昭和20)年8月6日、午前8時15分。私は12歳の中学1年生でした。爆心地から約1.5キロメートル離れた広島駅に近い鶴見町というところで、学徒動員令による建物疎開作業(予想される空襲による被害を少なくするため、決められた区域内の建物をこわし、空き地をつくる作業)の後片付けに行っていて被爆しました。250人いた学友のうち、50人くらいしか生き残れなかったうちの1人です。

建物疎開で動員

その日の朝は、雲もなくよく晴れていました。真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐんと上がりはじめました。午前7時9分に出された警戒警報(敵の飛行機が来るという合図)は、7時31分に解除され、ほっとした市民はそれぞれの仕事にとりかかりました。広島市のまわりの町や村からも建物疎開作業のため、たくさんの人たちが市内に集まっていました。そのほか、4万人をこえる軍隊の関係者などをあわせて、約35万人の人がこの日、広島市内にいたと考えられています。
 このころの学校は、戦争中のため、夏休みはほとんどなく、中学生以上の生徒は連日工場や建物疎開作業現場で働いていました。この日も、中学1、2年生の男女あわせて約8千4百人が、建物疎開作業を手伝うことになっていました。また、国民学校とよばれていた小学校では、3年生以上のこどもたちを空襲にあわせないため、農山村に住まわせる学童疎開が行われていました。そのため、市内には主に8歳以下の幼児や女性、病弱な人や、年老いた一般市民が残っていました。
当時、勤労動員で駆り出された男女の学生生徒は、日本全国ではおびただしい数になっていました。昭和20年3月には、315万6,000人におよびました。学校はごく一部をのぞいて、授業は中止されていました。教育は、日本全国からなくなっていました。私達は4人一組になって、壊れた屋根瓦(がわら)や木や材木などをよっしゃ、よっしゃと掛け声をかけながら運んでいました。

火の玉そして轟音

その時です。親友のたき子さんが、「あっ、B29の音が聞こえる!」と叫んだのです。広島はそれまで空襲らしい空襲を受けていなかったし、警戒警報も解除されたのに、不思議だなあと思いながら空を見上げると、やがて白い飛行機雲が見え、その跡を目で追うと、北西方向へ去ろうとする飛行機がかすかに見えました。
 しばらく見ていると飛行機の後方から何か光る物体が落ちてきて、私の目の前でさく裂したように思えました。その火の玉は広島市を真っ赤なかまどの火と化したように思えました。私はあわてて地面に伏せました。伏せたと同時に言葉では言い表せないほどの、耳を裂くような轟音(ごうおん)を聞きました。私は最初、飛行機が私を狙ったのだと思いました。
 どのくらいの間、私は横たわっていたのか分かりません。意識を取り戻した時には熱線で真っ赤になった広島の街は、夜に変わっていました。土煙りが立ちこめて一寸先が見えません。私と一緒に立っていたたき子さんの姿が見えません。ほかの友達の姿も見えません。その時気がついたのです。私は伏せたと思ったけれど、実際は爆風で吹き飛ばされたのではなかろうかと。右腕と右脚を上にして横倒しにされていたのです。

やけどを負い服はボロボロ

立ち上がってびっくりしました。両手はグローブのようにやけどで2、3倍も膨れていました。当時染料がなかったので、野菜などで1日がかりで染めた紺色の上着は、胸の当たりが残っているだけ、あとは熱線で焼けてぼろ布のようになっていました。
 作業用のもんぺもゴムひもと腰の辺りしか残っていませんでした。私の体にまつわりついているのは、土ぼこりで汚れた白色の下着だけでした。白い色が私の命を守ってくれたのです。ご存じの通り、黒い色は光線を吸収しやすいのです。
 顔、両手腕、両脚がやけどで皮膚が焼かれ、はれて所々破れていました。傷口の肉が黄色になって血さえ流れていました。それを見ていると恐ろしくなり、家に帰ろうとしましたが、がれきの山で帰れません。そのがれきの上をはうようにして、熱さも痛さも忘れて逃げ続けました。

まるで恐怖映画のよう

家に帰る途中、私はたくさんの被爆者を見ました。みんなほとんど裸で、ひどく焼かれ、火ぶくれした体はまるで恐怖映画から飛び出した人物のように見えました。やれやれとたどりついたのは、鶴見橋のたもとでした。その辺りは傷ついた人びとでいっぱいでした。やけどが痛むのでしょう。両腕を胸のところに持ってきています。やけどでつるりとむげ、破れた皮膚はぼろ布のようになって指先5センチもたれさがっています。髪の毛は怒りと爆風で逆立ちになっています。人びとの目には苦しみが漂い、持って行き場のない怒りが顔いっぱいに広がっています。そして、「熱いよう、お母さん助けて!」と泣き叫んでいました。
 私は熱さで耐えきれなくなったので、川の中を見ました。川はちょうど満潮でした。川には多くの死体が浮かんでいました。沈んだり、流されたりしていました。爆風でおなかが破裂したのか、または何かにぶっつかって破れたのか、下腹が破れ内臓がとび出た死体も土手にころがっていました。私は一瞬ためらいましたが、身を焦がれるような熱さに、結局川に入っていかざるをえなかったのです。

「道子さん」助けられたのでは…

「美代子さんじゃないの」とだれかが私の名前を呼ぶのに気がつきました。私にはだれが私に話しかけているのか分かりません。彼女は「私、道子よ」と言いました。言われてはじめて分かるほど彼女のやけどは大変ひどく、目も、顎(あご)の形もありませんでした。
 辺りを見渡していると、今逃れて来たところから赤い炎が燃え上がっているのに気がつきました。このまま川にいると火に包まれて逃げ出せなくなるのではないかと思った私は、お互いに助けあって川土手にはい上がりました。
 橋を渡りました。橋の上は被爆者でごったがえしていました。電車道は電線が切れて垂れさがり、街路樹の枝は折れて方々に散っていました。電柱も曲がっています。被爆者が防火水槽から水を飲もうとして首をつっこんだまま、力尽きて死んでいました。逃げられなくなった被爆者が道路のわきにも寝ておりました。
 私たちはもう一つの橋の所まできました。道子さんは「私はもうこれ以上走れないわ。あなた1人で早く逃げて」と言いましたが、目には涙をいっぱいためて、一緒に連れてってと訴えているようでした。3日後、彼女の両親が発見した時は、彼女は既に死んでいました。もし、私たちがお互いに助け合って救護所まで行けば、彼女は生きることができたかもしれないと思うと、私の心は張り裂けそうになります。

死の縁をさまよう

私は近所の浜村あやのというおばさんの助けで、地獄からはい出ることができました。途中、父と出会いました。父は一生懸命消防車に水を入れていました。一瞬驚いたようでしたが、「傷はたいしたことではない。お母さんが待っているから、おばさんに連れて帰ってもらいなさい」と言って、広島市内へと消防車を走らせました。父は、3日間広島市内で消火活動をし、それから救護所に移り被爆者の治療に当たり、死体を焼いたりしました。そのころから体が弱くなっていったようです。
 私は救護所で4日間も高熱にうなされました。下痢(げり)、おう吐、歯ぐきの出血に苦しみました。髪の毛が半分抜けました。死のふちをさまよいました。
 ケロイドの傷跡は私の顔、両手腕、脚まで広がっていました。私の膝(ひざ)の骨が永久に固まらないように時々動かす運動をするのですが、その運動が大変痛かったので、いっそのことあのとき死んでいたほうがよかったと思うことがしばしばありました。
 7カ月の治療後、私は自分の足で鏡のところに行き、自分の顔を見たときのあまりにも変わり果てた自分の顔を信じることができませんでした。母は「代われるものなら代わってやりたい。私は老い先短いのに」となげき悲しみました。そんな母を見て、私は母の前で決して自分の運命をなげくまいと固く決心しました。

残酷だった青春時代

8カ月後、私は復学しました。250人以上いた学友も50人ぐらいしか来ておりませんでした。私は原爆によってずっと苦しみ続けましたが、勉強をやめるつもりはありませんでした。むしろ、さらに懸命に勉強をしましたが、体が弱い、顔にケロイドがあるという理由で、念願の銀行員になれないどころか、なかなかほかの仕事にも恵まれませんでした。
 私の青春時代はとても残酷でした。仕事がない上に、放射能の影響でいつ病気になるか分からない、また、障害があるこどもが生まれるのではないかと案じられ、結婚話もほとんどなかったのです。このような社会的差別を克服しなければならなかったのです。
 1953年、私は大阪で7カ月にわたって12回の形成手術を受けました。その結果、閉じなかったまぶたが閉じることができるようになり、曲がった両手の指や腕が伸びるようになりました。

福祉活動を通し社会とかかわり

その翌年(1954年)、私は、胎内被爆者(両親がそういってる)で知能が2歳にもいたらない双子の目の見えないこどもたち、両親がいない、また貧乏で引き取り手のない幼児、こういったこどもたち30人の母親となって8年間働くことになりました。
 私はこの福祉の仕事を通じて積極的に社会とのかかわりを持つようになりました。次第に、友人の輪がひろがり、物の見方にも幅ができてきました。このころから原爆について深く考えるようになりました。戦争、原爆-核をつくり出すのは人間である。その人間が本気になって戦争を、核を憎み、その悪を訴え続けなければ、人間は再び戦争を起こし、核を使い同じ過ちを繰り返すことになる。そういった思いから、私は、私の人生を核廃絶運動にささげる決心をしたのです。
 1988年9月、私は乳がんの手術をし、5カ月間休職しました。現在、一見健康そうに見えますが、傷はまだ痛みます。その時できた胃の2つのポリープも医師は常に検査の必要性があると言わています。だから、私は再び、がんになるのではないかと不安でなりません。しかし被爆者として被爆体験を語り、核廃絶を訴え、戦争の愚かさと生命の尊さをできるだけ多くの人びとに語り続けることを使命としている私は、健康の不安とも闘っております。

原爆投下、正当化できぬ

戦争は56年前に終わったけれども、私たち被爆者にとって原爆は過去のものではなく、現在も続いているということです。
 広島平和記念資料館(原爆資料館)には年間約140万人の人びとが訪れますが、そのうちの20万人強の小学生から大人までに私たち被爆者は被爆体験談をしています。また、日本のアジアへの戦争犯罪についても話をしています。
 「1910年8月、日本は隣国である朝鮮を併合したと発表し、35年間にわたり、土地、資源、言語にいたるまで、奪いとりました。この凶悪な行為に対し、日本はまだ韓国・朝鮮の人たち個人に補償していません。生計を奪われた約200万人の朝鮮人が労働力として日本に強制連行されたのです。このような理由で現在、広島には約2万人の朝鮮人被爆者がいます」と。
 私は第二次世界大戦中、日本はアジアの侵略者であり、また原爆の被害者でもあったという日本の戦争犯罪についても謝罪をこめて話していますが、だからといって、日本のアジア侵略が原爆投下の正当性につながるとは思っていません。それは、核兵器は私たち人間すべてを殺すことができるからです。
 それは、原爆投下を単なる戦争行為としてだけとらえてはならないということです。広島、長崎の原爆投下によって、人類は核時代という「破滅の時代」の扉を開けてしまったのです。

破滅と背中合わせの人類

核保有国がいま保有している核兵器は、アメリカ、ロシア、フランス、中国、イギリスの5カ国全体で3万発にものぼります。そして、それらの核兵器は、広島に投下された原爆の何百倍、何千倍もの威力があります。その破壊力は、広島の被害状況から推定すると、地球上の全人類を数度殺りくできるほどだそうです。ですから、戦争で再び核兵器が使われるようなことになれば、人類には絶滅しか残されていないのです。
 そこには、勝者も敗者もありません。加害も被害もありません。無があるだけです。その意味で、ヒロシマ・ナガサキは加害・被害の概念を超えた悲劇体験であり、人類はヒロシマ・ナガサキから未来を生きるための教訓を学びとらなければなりません。
 それなのに、世界はインド、パキスタンの核保有をきっかけに、再び核軍拡・核拡散の愚かな道を進もうとしています。その中で、イギリスが核軍縮の方針を打ち出してくれたことはわずかな望みですが、そのイギリスとて核兵器にすがる政策を放棄しようというのではありません。
 私たちは、破滅と背中合わせの状況に置かれています。核兵器をこの地上から一掃しない限り、人類に明るい未来はありません。私はすでに60代半ばの年齢になり、身体も原爆症のために思うにまかせませんが、体の続く限り核兵器廃絶のために頑張る覚悟です。広島の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」ときざまれています。これがヒロシマの心のすべてです。