被爆までの広島

広島市は江戸時代、中四国地方第一の城下町でしたが、1867年の明治維新ののち、広島県の県庁所在地として再出発しました。
 その当時の広島は、海、川、山に囲まれた三角州(デルタ)の上に位置する都市でした。一方、陸軍の施設が集中していき、やがて学都・軍都という2つの顔をもつ都市として知られるようになりました。 1920年代から発展し始めた重工業も1930年代後半には軍需工業化していきました。被爆直前には、広島湾一帯は、呉の海軍と合わせて軍事的性格を強めていました。

▽明治・大正期のあゆみ▽

広島市は近代化の波に乗って、しだいに学都・軍都の性格を強めていきました。
 日清戦争(1894-95年)当時、戦争の指揮をとるための最高機関である大本営が設置されました。帝国議会も開かれ、広島はあたかも首都であるかのようでした。また、たくさんの兵士が戦場に向けて広島南部の宇品港から出兵しました。
 日露戦争、第1次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争…。広島は日本の戦争のたびに軍隊の集結・出兵の地となり、軍事施設も拡充されていきました。
 また、たくさんの教育施設がある学都としての顔も持つようになりました。1902(明治35)年には東京に次いで、教員養成のための「広島高等師範学校」が開校しました。

<相生(あいおい)橋>

相生橋はT字の形をした全国でも珍しい橋で、これが原爆投下の目標になったと言われています。このT字型の相生橋は1934(昭和9)年に完成しました。それにともない、東西からV型に架けられていた旧橋は取り払われました。写真はT字型になる直前の橋の様子です。V字型の旧橋もまだ残っています。
【写真】戦前の相生橋(広島市公文書館提供)

◆ 関連項目
 西館「爆風で吹き上げられた相生橋の歩道」
 碑巡り「相生橋」

<日清戦争と宇品港>

広島市の南部に位置する宇品港は、1889(明治22)年に完成しました。
 日清戦争(1894-95年)が始まると、わずか17日で広島駅から宇品港まで軍用鉄道が敷かれました。
 宇品港は中国大陸への軍用輸送基地となり、多くの兵士が港から出兵しました。沿線には陸軍の兵器・被服・糧秣(りょうまつ)の3支廠(ししょう=工場)や輸送、補給を担当する「陸軍輸送部」がなどの軍事施設が設置され、戦時の重要港としての役割を果たしました。
【写真】日清戦争当時、宇品港に停泊する輸送船と出動部隊を運ぶ小舟(広島大学文学部国史学研究室提供)

▽昭和期・戦時下の広島▽

日本軍の中国大陸での戦争は、1931(昭和6)年の「満州事変」が引き金となり、37年に起こった「盧溝橋(ろこうきょう)事件」で日中全面戦争に拡大しました。
 さらに41年に日本軍はハワイ・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲。ドイツ、イタリアと同盟した日本は、太平洋戦争(第2次世界大戦)へと突入していきました。
 広島の多くの産業は軍の命令に協力し、生活物資の生産から軍需物資の生産へと急速に切り替えることになりました。そのため、市民の生活は徐々に苦しくなっていきました。男性は戦場にかり出され、残された女性やこどもは軍需工場に動員され、働かされました。そのなかには、朝鮮半島や中国大陸から強制的に動員され、工場や炭鉱などで働かされていた人びとも少なくありませんでした。

<国民総動員>

1937(昭和12)年の日中戦争開戦後、政府はすべての国民を戦争に協力させる「国民総動員」の体制をとりました。それは人びとの生活だけでなく、考えや思想の自由までも否定する「精神総動員」にまで及びました。
 広島でもぜいたく禁止運動などが実施され、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」などと、生活が苦しくても耐えるように強制されました。
 食糧や衣服などの生活物資はしだいに不足し、切符(きっぷ)制や配給制となりましたが、それさえも困難となりました。人びとはヤミ物資に頼ったり、校庭までも農作地にするなど、ますます生活が苦しくなっていきました。
 また、空襲に備えて各家庭でも防空壕(ぼうくうごう)が作られ、人びとは避難訓練やバケツリレーなどの消火訓練に駆り出されました。
 また、学校で軍事訓練が「兵式体操」という名で明治時代から行われていましたが、昭和に入って陸軍の軍人が中等学校以上に配属され、その強化が図られました。

【写真】国民総動員についてのポスター(広島市公文書館提供)

<軍需工場への学徒勤労動員>

  1894(明治27)年の日清戦争以来、広島が戦場の後方で軍事物資や食糧の補給や輸送をする兵站(へいたん)基地になったこともあって、多くの陸軍関係の工場がおかれてきました。1942(昭和17)年には陸軍船舶司令部=通称「暁(あかつき)部隊」=も設置されました。
 一方、労働力不足を補うため、これらの軍事工場に女性や学徒などの勤労動員が強化されていきました。44年5月には、県内の工場労働者の約4分の1が学徒動員によるものであったといわれています。

【写真】広島陸軍兵器補給廠(しょう)に動員された学徒 撮影:矢野弘    提供:広島市公文書館

<朝鮮人・中国人などの強制連行>

1938(昭和13)年4月に公布された「国家総動員法」にもとづいて、翌年7月には国民徴用(こくみんちょうよう)令が施行されました。これにより民間の産業労働者が軍事産業に強制徴用されましたが、それは朝鮮半島の人びとなどにも適用され、いわゆる「強制連行」が実施されました。
 広島県内へも数千人が連行され、県北の発電所や市内の軍事工場で働かされました。ひどい労働条件のもとで働いていたこれらの人たちの一部は、原爆で被災することになり、二重の被害を受けることになりました。

【写真】強制連行された朝鮮人などによって建設中の比婆郡高野町の高暮ダム=1943年(三次地方史研究会提供)

<建物疎開の強行>

1943(昭和18)年3月、政府は「都市疎開要項」を決定、広島市でも133カ所が指定されました。官公庁や軍事施設、軍事工場などを空襲による被害から守るため、民家の取りこわしと市民の強制立ちのきをすすめました。
 その取りこわし作業には多数の学生・生徒や市民、周辺町村の住民などが動員されましたが、すべてが外での作業であったため、原爆により多くの犠牲者をだすことになりました。
【写真】建物疎開作業を描いた四国五郎さんの絵

<学童疎開の実施>

建物疎開と並行して人の疎開(避難)も政府の方針としてすすめられました。これは学童などの都市からの避難をうながしたもので、広島市でも1945(昭和20)年3月から、学童集団疎開が実施されました。学童疎開は、山間地など郡部の寺院などへの集団疎開と、縁故(親せきや知り合いなど)先を求めての個人疎開に分けられます。しかし、疎開先でも食糧難に苦しめられ、子どもたちの生活は、困難をきわめました。

【写真】袋町国民学校の疎開児童と慰問に訪れた親たち(広島市公文書館提供、横上春子さん撮影)