広島に投下された原子爆弾

 広島の上空580メートルで炸裂(さくれつ)した原爆は約1キログラム(855グラム)のウランの核分裂により引き起こされました。そのエネルギーは、TNT火薬に換算すると1万5000トン分の破壊力に相当します。ウランの核分裂にともない、初期放射線(ガンマ線と中性子)と残留放射能がつくられました。中性子は瞬間的に放射され、ガンマ線は20秒後まで強く続き、残留放射能はガンマ線とベータ線を出しながら長く残りました。
 爆発1秒後に最大直径約280メートルの高温・高圧の火球が発生しました。火球は強烈な熱線を約3秒間放射し、約10秒間輝き続けました。爆風の先端を進む衝撃波(しょうげきは)は、30秒後に爆心地から約11キロメートルの距離まで達しておとろえました。 

▽原爆による被害▽
<熱線・爆風による被害>

 数百万度という超高温に火球から放射された熱線は、主として赤外線と可視光線(肉眼で見える光線)からなり、それによる爆心地の温度は3000-4000度に達しました。
 数十万気圧という超高圧の火球から発生した爆風は、先端を超音速ですすむ衝撃波と、そのあとを追って吹く突風からなり、爆心地における衝撃波の圧力は1平方メートル当たり35トン、突風の速度は1秒当たり440メートルに達しました。

<放射線による被害>

 初期放射線は、爆心地から2キロメートル以内に強く降りそそぎました。4GY(グレイ)でも半致死量(半数が死亡する線量)とされていることに注目すると、爆心地から約1キロメートル以内で屋外にいた被爆者の半数以上は、初期放射線を主因として亡くなったことになります。
 残留放射能には、地面と建造物資材に残ったもの(誘導放射能)と、ウラン原子核が2個に分裂した核破片に生じたもの(死の灰)があります。地面と建物に残った残留放射線は、約1キロメートル以内では爆発後100時間強く残り、また死の灰による残留放射線は、地面と建物に残った放射能と比べて弱かったものの長時間残り、しかも「黒い雨」が降った地域には多量に残りました。

<原爆による人体への影響>

 原爆の熱線・爆風・放射線が人体に与えた障害を「原爆症」といいます。原爆症は、大量の放射線が関係したことに特徴があり、急性障害と後障害に大別されています。
 急性障害は被爆後4カ月間に現れた病気で、熱傷や外傷による症状のほかに、初期放射線による特徴的症状として、爆心地から1.5キロメートル以内の被爆者に脱毛、出血、白血球減少が顕著(けんちょ)に現れました。
 後障害の特徴は、被爆の翌年から現れたケロイドに始まり、その後は特に白内障、白血病、諸種のがん=甲状腺(こうじょうせん)がん、乳がん、肺がんなど、胎内(たいない)被爆者の障害(小頭症や発育不全など)などに、高い発生率がみられました。
 さらに、原爆の爆発以後に広島市内に入った人びとにも、残留放射線の影響で発病や死亡したと考えられる事例があります。

▽ 抗議の電報-1999年2月までに567通▽

広島の歴代の市長は、1968(昭和43)年から報道された各国の核実験にそのつど、抗議の電報を打ち続けました。
 現在、99年2月に行われた米国の臨界前地下核実験への電報で567通となっています。
 どの電報にも、その通達が最後になるようにとの願いが込められています。 

▽73/100に縮小された原爆ドームの模型▽

負傷した痛みや、やけどに耐えきれなくなったたくさんの人々が、原爆ドームに沿った川に飛び込み、水死しました。遺体は市内のどの川にも浮かんでいました。
 かつては「広島県産業奨励館」として壮麗(そうれい)な姿を誇ったドームは、いま悲劇のもの言わぬ証人として、また世界平和を訴えるシンボルとして静かにたたずんでいます。