◆被害を物語る展示物◆

■爆発直後、松重美人氏が撮影した写真■
▽やけどし、傷つきもだえ苦しむ人びと(被爆3時間後の午前11時ごろ、爆心地から約2.25キロの御幸橋西のたもと。中国新聞社提供)

この写真には、やけどし傷つき痛ましい人々の姿が写っています。髪は爆風でボサボサになっています。黒い煙と猛威を振るう炎が市の中心部から立ち上り、その猛火から避難し、焼けた肌をさらした人々で込み合っています。この写真を撮った松重美人(まつしげ・よしと)さんは涙が指を伝いながらも、恐る恐るシャッターを切ったと言います。

▽被爆者に罹災(りさい)証明書を書く警察官(午後5時ごろ、爆心地から約2.5km、皆実町。中国新聞社提供)

頭に包帯を巻き自身も傷つきながらも、被害に遭った人々にその証明書を書いている警察官の姿をとらえています。

■黒こげの弁当箱

原爆が炸裂(さくれつ)したとき、県立広島第二中学校の1年生だった折免滋(おりめん・しげる)君は同級生と一緒に毎日、建物疎開作業に動員されていました。8月6日も、お母さんの作ったお弁当を持って、朝早く家を出ました。物不足のためお弁当には、米・麦・大豆をまぜたごはんにジャガイモと千切り大根の油いためが入っているだけでした。質素な中味でしたが、お母さんの真心がこもったお弁当でした。あの日の朝、滋君は大変喜んで持っていったということです。
滋君たちの作業現場は、爆心地からわずか600メートルの中島新町(現在の広島国際会議場のあたり)でした。彼はそこで被爆し、亡くなりました。お母さんは滋君を捜して破壊された広島の街を歩き回り、翌9日早朝、本川の川岸でお弁当をおなかの下に抱きかかえるような姿で亡くなっている滋君を見つけました。
滋君が食べることのできなかったお弁当は、真っ黒にこげていました。

■伸ちゃんの三輪車

忘れられない8月6日、あの夏の日、鉄谷伸一(てつたに・しんいち)ちゃん(3つ)は爆心地から約1.5キロメートル離れた東白島町の自宅の前で三輪車に乗って遊んでいました。伸一ちゃんは三輪車に乗るのが大好きでした。突然空が明るく光り、伸一ちゃんと三輪車は激しく焼かれ、伸一ちゃんはその日の夜、亡くなりました。
お父さんは、たった3歳の子を1人お墓にいれても寂しがるだろうと思い、亡くなってからも遊べるようにと遊び友達である三輪車を伸一ちゃんの亡骸(なきがら)と一緒に自宅の裏庭に埋めました。
 40年後の1985(昭和60)年の夏、お父さんは伸一ちゃんの遺骨を掘り出し、お墓に納めました。この三輪車はお父さんが資料館に寄贈したものです。

■動員学徒(中学生)の制服

市立中学校の1、2年生は、爆心地から800メートル離れた小網町の建物疎開作業現場で被爆し、多くの犠牲者が出ました。この衣服は、亡くなった3人の生徒が身につけていた衣服を一体にして展示しているものです。
 学生服とズボンは2年生の福岡肇(ふくおか・はじめ)君、帽子とベルトは1年生の津田栄一(つだ・えいいち)君、ゲートルは1年生の上田正之(うえだ・まさゆき)君のものです。息子を失ったお母さんたちが、服の一部分ずつを見つけました。そして、その悲しみと怒りを表すためにこれらの貴重な遺品を資料館に寄贈したものです。この服を着た3人の中学生はもうしゃべることもなく歩くこともありません。黙ったままの証人は、8月6日の悲劇を物語っています。
<メモ>建物疎開作業
 第2次世界大戦の終わり、多くの生徒が空襲などに遭った時、避難する場所を確保するための建物疎開(取り壊し)作業と防火帯づくりに動員されていました。原爆が投下された8月6日、8000人以上の生徒が建物解体と防火帯づくりのために街の中にいました。そのうち、約6900人が屋外での作業中に亡くなりました。また、市内のさまざまな工場で働いていた多くの少年少女も亡くなっています。