◆救援救護活動◆

 原爆の災害は、一瞬のうちに全市を直撃したので、県庁、市役所、警察などすべての官公庁が機能を失いました。翌日には被害が軽かった陸軍船舶司令部所属部隊(通称「暁(あかつき)」部隊)が中心となって、広島警備司令部が設置さました。救護活動が軍・官・民一体となって行わることになりました。

<不眠不休の治療>

 市内の病院や救護所では、かろうじて生き残った医師や看護婦が治療に全力を尽くしましたが、医薬品が絶対的に不足していました。広島県内や近県からも救援隊・医療救護班の応援があり、不眠不休で治療が続けられました。
原爆症の症状には赤痢(せきり)に似たものがあって、当時、市内や周辺部に赤痢が多数発生したとされていました。実はそれが「原爆症」でした。
  救護と遺体処理には、主に宇品の陸軍「暁(あかつき)部隊」や警防団があたっていましたが、敗戦によって軍隊が解散すると、広島市にゆだねられました。「原子さばく」といわれたこのような焼けあとで、市はなんとか人手を集めて、被爆後十数日をへてもまだ残っていた遺体を処理しました。
被爆数日後には、家族を失った子どもたちが焼けあとをさまよっていました。
  疎開先で、原爆によって保護者を失った子どもの数も膨大(ぼうだい)な数に上りました。戦災孤児(せんさいこじ)の収容所に保護された子どもも、原爆による障害と極度の栄養不足とでつぎつぎと亡くなっていきました。

<マルセル・ジュノー博士>

  市全体が原爆の悲劇に包まれている1945(昭和20)年9月8日、スイスの医師マルセル・ジュノー博士が広島に来ました。赤十字国際委員会駐日主席代表として来たジュノー博士は、医療チームが撤退した後も広島に残り、被爆者救護に全力を尽くしました。
  彼の努力によって薬が各救助所に配置され、何千人もの被爆者治療に役立てられました。彼の偉業や人間性あふれる愛情をたたえ、平和記念公園南の入り口に記念碑(=写真)が建てられています。
  碑の後ろにはジュノー博士の言葉、「無数の叫びがあなたの助けを求めている」が刻まれています。