世界中に平和の種まきたい

証言通じ被爆の実相後世へ

沼田鈴子さん

亡くなられた沼田さんの証言はこのまま残し、後世へ伝えていきます。
ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。

 私は、1923年7月30日、大阪で生まれ、5歳のとき私の父の仕事の関係で、広島に来ました。家族は、両親、兄、妹と私の五人でしたが、1929年4月に、広島で弟が生まれて、六人の家族になりました。
 私は小さい時から何不自由なく、わがままいっぱいの少女として成長しました。小学校を卒業し、やがて夢多き女学生として、楽しい出発がはじまっての日々を過ごしておりました。
 2年生になった1937年7月7日に、突如として、日中全面戦争へ突入ということを知らされましたが、後に人生も、心までも変えさせられてゆくなど、戦争への意識は全くなく、実感として、受けとめることができませんでした。そのような私達は、いつの間にか、軍国主義の体制の中を、軍国少女になっていったのです。
 満州事変から、1945年8月15日の敗戦までの15年戦争といわれた中で、日本の中国への侵略、東南アジアへの侵略、南京大虐殺、重慶大爆撃、朝鮮半島に与えた苦しみ、日本が加害国になっている侵略の事実は、深く教えられることもなく、ただ、聖戦、愛国、正義、勝利の美名のもとに「八紘一宇(はっこういちう)」「一億一心火の玉になれ」「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」など多くの標語や、軍歌を力いっぱい、口ずさみ、命令を疑う事もなく、戦争の勝利のために、すべてを協力し、頑張りました。
 1939年7月14日から5日間、4年生であった私は、軍需工場の兵器支厰(ししょう)に、勤労奉仕ということで、大砲の玉の表のサビ落としに、1年生、2年生、3年生の全員で通いました。服装は、セーラー服と折りのスカートをぬぎ、膝(ひざ)までの作業着としての短いズボンをはき、体操服を着用し、靴下もはかず、ズック靴に白い軍手をはめての姿でした。戦争は人間の大切な心までも狂わされていることに気がつかず、むしろ、女学生ながら、戦争のために、名誉な仕事をしている誇りを感じました。このサビをひとときも早く奇麗(きれい)にして、戦場に送りたい、自分たちの磨く大砲の玉が、敵の1人でも多く殺せば、日本は戦争に勝つのだという思いを持って、一生懸命に磨きました。戦後もずっと後に、このことが私の教育の恐ろしさと、反省となって、戦争を加害と被害の両面から、みつめ考えていくことになったのです。

うち砕かれた21歳の夢

女学校を卒業し、1942年に、父が勤めていた広島逓信局に、妹が4月、私が5月に事務員として勤務しました。親子3人が同じ庁舎内で働いているうちに、143年10月に、19歳の私は婚約をしたのですが、食糧の不足も夢も希望もない統一された防空服装を身につけていることなど、心の喜びのため我慢をすることができたのです。後に私達と共に働いた動員学徒の生徒さんが、私の喜びを知って、どんなに喜んでくれたことでしょうか。
 1944年3月の3回目の彼との出会いは、島根県で受け取った赤紙一枚で広島にきて、宇品港よりの出征でした。中学生であった弟も4月に軍国少年となって、松山の予科練に入隊し、終戦まで行方不明でした。銑後を守る女性として、優しい心の表現すらできなかったあの時代、彼とは、一度も手を握ることもないままに別れ、見送った私は、心の中で「死なないで帰ってください」「軍人として手柄をたててください」と、一生懸命に叫びつづけました。大砲の玉を磨いていた時の恐ろしい心を、再び持ったのです。いつの日か帰ることを願っている中に、国内も沖縄の地上戦、各県へのB29の襲来と、爆撃での想像もつかない程の生地獄、多くの犠牲者の情報を耳にしておりました。
 私はその後、1945年5月1日付で、4階から同僚三人と共に、屋上にあった防衛通信中部施設部に勤務を命ぜられ、軍隊に関係の職場のためであったのか、仕事の内容は知らされず、煙草の葉を煙草に巻くことを教えられ、常にその仕事と、使い走りを8月5日の夕方まで命令によって、忙しく働いていました。
 1945年3月の末頃でしたが、待っていた婚約者が、8月8日、9日、10日の3日間のいずれかに戦場から、軍用で広島に帰るということを知り、両家の親達が、食べる物も、着る物もないが、顔をみた段階で結婚式を、ということで、21才の娘として、夢と希望の喜びが胸をふくらませ、8月のくる日をどんなにか待つ者になっていたでしょうか。しかし待っていた婚約者は、7月既に戦死をしていたことを、私も誰(だれ)も知りませんでした。広島にもB29の襲来は度々あり、空襲警報、警戒警報の度になるサイレンは、不気味さと、不安と、恐ろしさで、身心を動揺させられていましたが、軍隊もあり、軍需工場もあるのに、他県のように爆撃を受けないことが、不思議に思われていました。8月6日の原爆投下まで無傷の広島市内でした。

被爆体験

あの魔の運命ともなる1945年8月6日、午前8時15分の恐ろしいできごとが、広島市民の上にせまっていることなど、夢にも思わず、前夜からの連続的な空襲警報は、2時10分に解除となって、静かな朝を迎えました。何事もなく無事でよかった。今日も頑張りましょうと思うと同時に、3日後に控えた結婚式のことが心に重なり、張り切っていた私は、さっさと服装をととのえ、家族もすっかり支度が終った後、母が、「皆つかれているので、今朝は、できるだけ涼しいうちに家を早くでる方がいいよ」と、いいましたので、そのつもりになっていたところに、サイレンがなりはじめました。

結婚式の3日前に被爆

警戒警報の発令で、こんなに今朝は早くからB29の襲来かと思うと、不安をもちましたが、いつものように、何事もなく解除になるだろうと、家の中で解除になるのを待っていました。時計もみないままでしたが、後に知ったのは、7時9分に警戒警報発令で解除が7時31分だったそうです。私は1時間位のように長く感じていました。解除のサイレンと同時に、小さなラジオから、B29は広島に近よっていたが途中から全部引き返したので、もう大丈夫ですという知らせを耳にし、ホッとして、防空頭巾(ずきん)と、小さな救急袋を肩から下げて、母に挨拶(あいさつ)をして、父、妹と3人で、爆心地より1000メートルの地点にある、広島逓信局(鉄筋四階建)に出勤しました。兄は爆心地より1500メートルの地点にあった、広島貯金局に勤務、母は家に残っておりました。
 逓信局に着いた父は4階、妹は3階、私は屋上にある事務所に急いで行き部屋に入ると、まだ女の事務員は誰も出勤をしておりませんでした。私1人が早くきたのだと思って、何気なく机の上をみると、男の人達のシャツが置いてあったので、屋上の外をみると、雲ひとつない晴れ渡った青い空、照りつける太陽の下で、上半身をはだかで、体操をする人、話をする人、空をみあげながら、うちわを使っている、それぞれの姿がありました。私は部屋の中から、その人達をしばらくみていたのですが、早く掃除をしなければという思いで、1人で広い部屋の掃除を始め、やっと終わって、いつもは屋上に低い水道が3ヵ所あって、そのどれかで、かがみこみ、頭と背中を空の方にむけて、洗い物をしていましたが、なぜか、あの朝は、外で洗いたくない気持ちがあって、4階の洗面所に行こうと、左手にバケツを持ち、外にいる人たちをみながら、階段を降りて階段のすぐ側にあった洗面所の前の廊下に立ったとき、いきなり鮮やかな色が目に入ったのです。
 いま思うと屋上から洗面所までは、1分も2分もかかっていなかったのではないでしょうか。洗面所は運動場に面し、爆心地の方向にむいていたのです。赤、黄、青、緑、オレンジの色がまじったような、それは鮮やかな色でしたが、私にはそれが何か分かりませんでしたが、原爆の爆発の瞬間の閃光(せんこう)だったのです。

下敷きになり左足首切断

どの位たってからでしょうか、ふっと気がつくと、暗い中でずっしりと重いものの下敷になったように感じましたが、またすぐ分からなくなりました。廊下に立っていた私は、爆風に吹き飛ばされたのです。爆風のために屋内のものはくずれ、その物の下敷になったとき、左足首を切断したのです。気絶をしている間に異常な臭いの煙が屋内に広がり、それを運動場に避難をしていた人が気づき、救けにこられた人に見つけだされて、救助されますが、足が切れているため、背中におわれて、4階から1階まで、やっとの思いで脱出をしてくださいました。脱出する間に4階から3階、2階と火が出はじめたのです。後に父からの話で知ったことですが、建物の数多くの窓からは、カーテンがゆれているように、火が外にでていたそうです。私の救助が一秒でも遅れておれば、生かされることもなく、うめき、もだえながら怨念(おんねん)の涙と共に、下敷のまま消えたことでしょう。
 運動場に出たときは、目もみえず、耳も聞こえないようになっていたのです。運動場は、熱気でパニック状態になり、傷ついた人も、群がり逃げまどっているとき、反狂乱のようになり、「娘がいない」と、叫びまわっている父と出会い、切れた娘の足首をみた父は驚きのあまり、傷ついた人達にもかまわず、娘を何とかしてほしいと頼んでいるとき、どこからか畳が1枚運ばれ、はじめてそれに横たわって安全と思われる場所に、避難をしました。何度も気を失いかける私の意識がしっかりとしました。それは止血の出会いがあり、出血も止まって命を得ることになり、目、耳もはっきりした中で見たものは、人間が人間の姿ではなく、水、苦しい、助けて、お母さんと叫ぶ声、死んでいく姿、悲痛の叫び・・・・・、この世とは思えない、地獄絵の惨状でした。
 右足の先に、苦しそうにしてうずくまっている者が、真っ黒い顔をして、頭、腕にもガラスの破片を受け、血を流している妹でした。「お姉さん」と声を出したので、分かったのですが、私がきれいな色をみて、どの位たっていたのでしょうか。空が急に暗くなり、大きな雨が降りだしました。放射能がふくまれていた、雨だったと後に聞きましたが、きれた足首にも、ヤケドの人も、死者もみんな雨にぬれました。足首は、不思議に痛みを感じませんでしたが、その後治療もされないまま、3日間放置されている間に、足首から膝関節まで化膿し、死の寸前になっていた9日の夜、他県からの応援の医師団が、懐中電灯とろうそくの灯りを頼りにしてこられ、私の助かる方法は、大腿部より切断ということで、 8月10日の早朝、無麻酔のまま、ノコギリで大腿部より切断されました。足を切断の際、私はすごく大きな悲鳴をあげたそうですが、不思議に命を与えられることになったのです。

被爆アオギリに勇気もらう

逓信局の一階が、仮収容所になり、私もそこに入りました。仮の病室は不潔で、傷ついた人の誰にも、うじ虫がわき、苦痛の叫び、発狂、断末魔の死の声、死者と同居の生地獄、焦土と化した焼野原で死体を焼くにおい、血や膿(うみ)のにおいが、横たわる私にも伝わりました。足の傷は、1年半の入院生活の間に、4回も手術をし、1947年3月に退院、車輪だけの上に板をのせた乳母車に乗り、母が押す間、変わりはてた道程をずっと泣きながら、帰ってみると、ガレキの場に、ポツンと小さな板ぎれを集めてつくったバラックの我が家がありました。
 父は無傷、母は左手に軽傷、兄は顔と胸をヤケド、妹はガラスで顔も腕も傷だらけ、一家が対面できたのは、8月15日の終戦後、弟も無事に復員をしてからでした。8月に結婚式をあげるようになっていた婚約者の戦死の知らせは、大腿部より切断し、苦しみの最中の8月後半でした。生きること、考えることすら失っていた私は、人ごとのようにただぼうぜんと、聞くのみでした。戦後を生きる望みを失った私は、尊い命を奪われた多くの犠牲者の中から、生かされたということに気がつかないで、人間としてすべてが失われた悲しみが憎しみのみに変り、自殺から離れられない日々が続きましたが、それを助けてくれたのが、大ヤケドをしながらも、立派な枝を成長させて力強く生きていこうとする被爆樹のアオギリとの出会いでした。
 アオギリは私の勤めていた逓信局の運動場に4本成長していたのです。常に休憩の場所にし、仲間と共に楽しんだ樹が、あの朝、熱線で焼け、3本が生き残りました。70年間、広島には草木も育たないという噂がたちはじめ、その事は私の耳の底にずっと残っておりました。戦後はじめて出会ったアオギリの樹は、3本とも、それぞれにヤケドの傷を持ちながら細い枝をだし、小さな葉をつけていたのです。その姿をじっとみつめている中に、自殺への思いを生きることへの思いにアオギリの樹が教えてくれたのです。それは私の立ち上がりへの力でした。被爆した建物も1973年に、8階建に建て替わるため、運動場も建物になるため、平和公園の現在地に移植をされました。

被爆者として悔いのない一生のため証言

立ち上がるまでには、歳月がかかりましたが、おろかな人間をとりもどすために学校に入り、教員の道へと進み、1951年から79年までの28年間の教員生活も無事終え、今日まで生かされてきております。娘2人の将来を案じた両親も亡くなり、兄も亡くなりました。弟は、孫に囲まれ、幸せに過ごしており、私は、被爆後、次々と病魔におそわれ、体調をくずし、いまも後遺症の苦しみを持って、不安の中で生きていかねばならない妹と、2人で助けあいながら、同じ屋根の下で過ごしています。
 28年間の教員生活の中で、あの日のことは、貝のように口も心も閉ざして、語りませんでした。退職後、語りはじめようとして気がついたときには、すでに老境へ入る第一歩。被爆者として悔いのない一生のために、いま、私は、戦争を知らない世代の人達に、生命の尊さと、平和を創り、守ることの大切さを、黙っていては伝わらないと、命のある限り、被爆体験を通し、証言をしなければならない重い責任のもとに、証言活動へ人生を役立てようと決心して、日々を動いております。

人類の過ちを再び繰り返さない

原爆を受けて、半世紀を生きることができたことは、ひとつの区切りであるでしょうが、私にとって、過去における歴史的時代背景の真実を正しく学び、謙虚な反省のもとに、人類が犯した過ちを、再び繰り返さないために、人類が幸せに生きのびるために、反戦、反核、反差別、環境汚染、自然破壊反対の運動にしっかり目をむけ、被爆の実相を、後世に語り伝えることが、大切な出発点であります。
 常に感謝をし、自らの学びにしておりますのが、戦後の復興の中から、あらゆる困難を乗り越え「平和」へのために、一生懸命に立ち上がった被爆者の運動の力、市民の草の根の運動の力、各運動家のかたがたが、いまを語る私どもに、路線のレールを敷いてくださったことです。敷かれたレールを大切に維持をし、21世紀を生きる人達が引きついでいかねばなりません。ヒロシマを風化させてはなりません。
 私はヒロシマを学んでくださるたくさんの方々の出会いに恵まれ、旅のつかれもみせず、目を輝かせて真剣に耳をかたむける小さな子どもたち、中学生、高校生、大学生、大人、諸外国の方々の姿に接し、沢山のことを私は教えられ、交流もふえますことを幸せに思うと共に、生きがいを感じ「明日に昇る太陽」に希望と勇気を与えられております。
 証言は、私の平和の一粒の種まきです。多くの方々が手をとりあって一粒ずつの種まきの輪をひろげましょう。美しい地球、素晴らしい未来のために、身近なところから、心の種をふやしてまいりましょう。最高の幸せは平和であること、無知であることは、おろかなことにつながります。平和なときこそ、真実をみつめ、狂っている世の中、社会に目をむけ、耳をかたむければ、自分自身の行動がみえるのではないでしょうか。国と国が理解し、民族と民族が信頼し、愛し合えば、心と心は通じあうのではないでしょうか。世界すべての人達が平和で幸せに安心して暮らせるように願ながら、歴史への旅をつづけています。訪問しているところは、アメリカ各地、ヨーロッパ各地、ソ連、マレーシア、シンガポール、ベラウ、フィリピン、ベトナム、アウシュビッツ、中国、韓国、パナマ、沖縄で、韓国、沖縄は毎年訪ねています。
 最後に出会–感動–発見–出発の四つの言葉を自分の日々の行動につながるものとしております。