<被爆直前>
○前夜(8月5日)…1945(昭和20)年8月5日の夜から6日の早朝にかけて、警戒警報・空襲警報がたびたび出され、市民は不安な一晩を過ごしました。6日の朝になってようやく警報が解除されて、街には職場に急ぐ人びと、疎開作業に動員されて現場に向かう人びとなど、月曜日の朝のふだんの生活にもどっていました。
○街並み…2つの川(本川と元安川)にはさまれたこの地区は、幕末から明治・大正期にかけて市内の繁華街・歓楽街の中心で、中島本町通り商店街には大きな店舗が並んでいました。木材の集散地であった材木町・木挽(こびき)町、商店街としての天神町・元柳(もとやなぎ)町・中島新町、そこには歴史の古い寺院も多く立っていました。しかし、当時は空襲を警戒して天神町、木挽町、中島新町は、建物疎開がすすんでおり、中島や本川国民学校の児童たちの一部は、郡部に疎開していました。
○空襲…1945(昭和20)年になると米軍はB29大編隊による夜間の無差別焼夷弾(しょういだん)攻撃を始め、全国各地の中小都市にまで攻撃を繰り返していました。広島は空襲らしい空襲を受けていませんでしたが、大規模な空襲に備えて火災の延焼防止と避難空地をつくるために木造家屋を取りこわし、また、町内会や家庭ごとに防空壕(ごう)をつくって、消火訓練や避難訓練などをしていました。
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<被爆直後>
○被爆(8月6日)…1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、それまでの広島は絵にかいたように美しく、静かな街でした。次の瞬間、目をくらますほどの閃光(せんこう)が走り、ドカーンという大音響とともに、たった1個の爆弾が広島の街を焼きつくしました。街全体が、一瞬にして破壊されました。爆心地から半径2キロメートル以内にいたほとんどの人々が亡くなり、建物も破壊されました。その年の終わりまでに、推定14万人前後の人々が亡くなるか行方不明となり、その数は、当時の市民約35万人の内のおよそ半分に相当します。
○火葬…どこのだれとも見分けがつかなくなった、おびただしい数の焼けた遺体は、その場で火葬するしかありませんでした。その間も死者は増えていきました。昼も夜も、市内のいたる所で遺体の上にまた遺体が積み上げられ、そして火葬されました。
○焼け野…見わたすかぎりの焼け野原となった広島では、広島駅から宇品の港が見えたと言われています。市外から身内の安否を気づかって、または救援活動のため市内に入った人々が、残っていた放射能の影響を受け汚染されました。さらにこの年の秋、原爆の悲劇に追い打ちをかけるように枕崎(まくらざき)台風が広島を襲い、街は水びたしになり大きな被害を受けました。
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